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サンバ修行3年目の奇跡「ファヴェーラからマンゲイラを目指して」

今回は、リオでサンバ修行をして3年。夢を追い求めファヴェーラからマンゲイラに通い、今年2019年のリオのカーニバルで優勝を果たした、ずんさんを特集します。サンバと出会いを経て、旅立だったリオでは様々なドラマが起こります。自分を見つけ、最後にたどり着いた先にあるものとは!?


サンバと出会うまで

音楽は子供頃から好き。勉強はペンを持つ手が震えるほど嫌い。身体も小さく、背の順は一番前。運動も苦手な冴えないやつで、友達もほとんどいなかった。

小学生の頃から、めちゃめちゃいじめられていた。中学生の時にはさらに酷かった。サンドバックになってもひたすら我慢。学校なんて行きたくないけど、そんな選択肢なんてなかった。親は共に教師。相談も出来なかった。

あの頃、厳格だった父親は、最近はずいぶん丸くなり、母親には本当にあの時ごめんねって言われる。

高校へは行きたくなかったけど、母親が自由の森学園(略:自森)を紹介してくれた。学校見学に行くと選択授業にオペラがあった。小学一年生からピアノや和太鼓や琴を習っていたので、今度は歌を習いたい。ここなら通えると思った。

自森に入学してオペラは3年生からだと知る。仕方がないので知識は全くなかったけど、友達に誘われたサンバを選択することにした。

高一の夏の浅草サンバカーニバルでは、アーラ(テーマを衣装と踊りで表現するパート)で参加。自森はここ数年はS1にいるが、当時の順位はS2の下位か真ん中くらい。今と比べると目標も低かった。

高二の夏からバテリア(打楽器隊)、ヘピニキ(Repinique)で出場。棒を持って皮が張ってある面を叩くのに慣れていたせいか、飲み込みが早く、出来ていたように思う。サンバは夏休み限定でやればいいやと、むしろ部活動でやっていた和太鼓や中国舞踊、郷土芸能(東北地方の面付けて踊る)に卒業まで力を入れていた。

今振り返ると、目立つことは大好きだけど熱心にサンバをやることはなく、衣装作りにも参加せず、先生を困らせた不真面目な生徒だったように思う。

高三になり、卒業する頃になると突然ブラジルへ行きたくなった。部活動で習った音楽は3年間でやりきったと思った途端、これまで全くやってこなかったサンバを真剣にやりたくなった。

「ブラジルに行ってきます」と先生に相談したら、自森とはいえ、「お前、何を考えているんだ」と言われてしまうが、それでも気持ちは変わらない。長期滞在に必要な費用を貯めるために、サンバで知り合った友達の家の植木屋に就職することにした。

滞在費用を貯めると言いつつも、好きな車を買ったり、音楽活動も続けていたので、なかなか貯まらない。ブラジルにも旅行で2度行った。1度目は2013年10月に自森の学生や卒業生、先生と研修旅行に10日間ほど。2度目は2015年2月のカーニバルの時期に10日間ほど滞在し、遂にカーニバルを観戦。目の前でパレードを見た時の印象は強烈で、「俺もマンゲイラ(G.R.E.S. Estação Primeira de Mangueira )の一員として、タンボリンで出たい!」。興奮している自分と、旅行で来ている現状に焦る自分がいた。

帰国後には、いよいよ覚悟を決めた。会社に「来年ブラジルへ行きます」と伝え、車を手放して得た資金と退職金を滞在費にあて、2016年10月にリオへ。24歳の誕生日はリオで迎える。高校を卒業してから5年が経っていた。

1年目の苦労

最初の2カ月はポルトガル語を勉強するために、リオのコパカバーナ(Copacabana)にある語学学校へ通うことにした。ホームステイ先は学校から紹介されたコパカバーナに暮らすブラジル人の家に決まった。

語学学校ではポルトガル語と英語しか通じず、ホームステイ先もポルトガル語のみ。もともと英語は話せず、事前にポルトガル語の勉強も全くしていない。どうにもならないことに愕然とする。電子辞書片手に、もう、やるしかない・・・。家の人とも話せない。タクシーで行きたい場所を伝えることも、買い物も出来ない。極端だけど、勉強しないと死ぬんだと思った。

肝心のサンバはというと、リオに着いて一週間後に、日本にいる時に紹介してもらったブラジル人がマンゲイラのクアドラ(練習施設)に連れて行ってくれた。見知らぬ彼とのコミュニケーションは笑顔で頷くのみだけど、会話の中でサンバの歌詞にある単語がでてくると嬉しかった。「それなんだっけ?」。

この日は土曜日で、マンゲイラのショーが行われる日。ショーは夜半遅くまでやっている。途中で外に出ると、バテリアのアメリカ人が話しかけてきた。

相手が何言ってるかなんてほとんど解らないけど、この日のために覚えてきた言葉を魔法の呪文のように唱える。「Eu quero tocar aqui!!!(俺はここで叩きたいんだ)」。そしたら、なぜか医務室に連れて行かれた。なんで医務室に連れて行かれたのか今でも分からないが、頭がいかれたやつがいると思ったのかもしれない。

しばらく医務室の人と話をしているとアメリカ人が戻ってきて、「ショーが終わったので、外でビールを飲もう」と誘ってくれた。ビールを飲んだりしていると「本当におまえ、ここで出たいのか?」って聞かれたから、「俺は出たいんだ」って言ったら、「何曜日にここでエンサイオ(合同練習)があるから」って教えてくれた。「Que horas são(何時ですか?)」くらいは勉強したけど、携帯を渡して日時を打ってもらった。

「あいつ、たぶんこんなこと言ってるな」。勘のみで交わす会話なんてたかが知れているけど、それでも次に進んでいる気がして嬉しかった。

エンサイオ当日。何かあったらいけないと思い、マンゲイラのタンボリンのジレトール(指揮者)のニエルソンが来日した時に彼から買ったタンボリン(ヘッドと呼ばれる部分にはミュージシャンの絵が描いてある)を持って行き、クアドラでアメリカ人を探すがいない。仕方なく、変な奴がいると思われながらも、映像をこっそり取りながら練習が終わるまで見ていた。

終わって外に出るが、せっかく来たのでジレトール(diretor:指揮者)かメストリ(Mestre:師匠・道を究めた人、長年ジレトールを経験した人がメストリになる)に想いを伝えたい。でも、誰も自分のことは知らないし、頼りにしていたアメリカ人もいない…。

どうしようと思いながら外の階段に座っていると、子供たちに声をかけられた。「なんでここにいるの?」よし!きた!この展開。「Eu quero tocar aqui!!!(俺はここで叩きたいんだ)」「楽器はなに叩くの?」「タンボリンだよ」「おー!タンボリン叩けるの?」。

子供達にタンボリンを叩いてみせると、端のほうにいた3人組のブラジル人から声が掛かった「おい。お前こっちに来い」。3人組に近づくと「それは、こいつだよ」。そこにはタンボリンのヘッドに描かれているミュージシャン、マフラン・ド・マラカナン本人がいた。

「さっき叩いていただろう、俺たちにも叩いてみせろ」「おー叩けるんじゃねーか、お前、何しに来たんだ?」「Eu quero tocar aqui!!!(俺はここで叩きたいんだ)」「じゃあメストリに話しなきゃだめだって、俺が一緒に話してやるよ」身振り手振りで解りあう。

そんなやり取りを続けていると、ジレトール、メストリなど、バテリアの首脳陣が出てきた。

早速、先ほどの三人組が「こいつバテリアで出たいんだって、俺が描いてあるタンボリン持ってるんだぜ」と伝えてくれた。FacebookやYoutubeで観ていた面々が目の前にいる。がっちがっちに緊張しながら挨拶した。

「叩けるのかお前?」とメストリに言われて「ちょっとだけ」と答えると「じゃあ叩いてみろ」。階段に座った全員の前で渾身の演奏を披露すると、その様子を撮影してインスタのストーリーにUPしてくれた。“日本人がタンボリンを叩いてるぜ”こんな文字が添えられて。残念ながら今は見ることが出来ない。(ストーリーは24時間で消えてしまう)

叩き終わった後はバカのひとつ覚えみたいに「Eu quero tocar aqui!!!(俺はここで叩きたいんだ)」と言い続ける。このときブラジルにきて2週間ほど経っていたが、他に伝える言葉は用意してなかったし、気の利いたセリフなんて思いつかない。

みんながビールを飲みながらゲームを始めたので、ビールを買って飲んで、ついでまわって、みんなが帰るまで一緒にいた。「次はエンサイオだからここに来い」。最後に別れる時、日時を教えてくれた。

次の土曜日のショーに顔を出すと、今度はあの時のアメリカ人もいて、「この前エンサイオに行ったよ」と言ったら、バテリアの演奏エリアに入れてくれた。演奏エリアに行くとメストリが気づき「お前か。こっちにこい」。土曜日のショーはオープンなので、知り合いがいれば割と誰でも叩けるが、始めてマンゲイラのバテリアの中で、メストリの横でタンボリンを叩いた。

この日を境にバテリアの練習にも参加できるようになった。次も出ていいか毎回確かめながら、エンサイオが1回、ショーが1回、コムニダーヂ(Comunidade:コミュニティ)向けの歌のレッスンが1回と、憧れのマンゲイラに週3回通えるようになった。それから魔法の呪文は「俺はここで叩きたいんだ」から「タンボリンで出たいんだ」に変えた。きっと叶うと信じて。

マンゲイラで修行開始

マンゲイラに通いだして生活も忙しくなった。朝は午前9時から12時まで学校、終わったら家に帰り、夜の練習まで部屋でYoutubeをみたり、音が出ないように楽器にカバーをし、練習で覚えたことを復習したりして過ごす。朝と夜ごはんはホームステイ先で用意してくれるが、ホームステイ先では全くコミュニケーションがとれないので食事の間も馴染めず、一人で遊びに出かけるのは危険な感じもするから、勉強とサンバに打ち込む。

ちなみに部屋は2畳程。ベットとスーツケースを置くわずかなスペースと棚があるのみ。かつてはメイドの休憩室だったと思われる。玄関から部屋まで直接通じているので、夜遅くに帰ってきてもファミリーに迷惑をかけずに済むのが救いだった。

週3回のマンゲイラへの移動は安全を考慮して地下鉄を使ったりせず、常にタクシー。コパカバーナからマンゲイラまで、タクシーだと結構料金がかかる(片道50~60へアイス。当時のレート:1レアル=35円程)。時々遠回りされてはぼったくられるので、学校とホームステイ費と交通費であっという間に貯金が無くなっていった。

エンサイオの日は、集合時間の15分前には着くようにした。クアドラの電気はついていなくて時間になっても誰も来ない。もちろん時間通りに始まらないのは分かっていたけど、時間前に着いて待つことが練習に参加する資格のような気がしていた。

仕方がないので入り口にいて、一人でぼーっと座って待つ。誰かが来たら立ち上がって、掃除の人だろうが、ふらっときたおばちゃんだろうが、まずは顔をおぼえてもらおうと来た人全員と握手して、こんばんはって。練習はだいたい2時間遅れでスタートするから、それまでひたすら握手とこんばんは。見知らぬアジア人の出迎えに掃除のおじさんもびっくりしたと思う。

ホームステイをしていたこの時期はつらく、めちゃくちゃ長く感じた。言葉が話せないもどかしさ。食事も米と豆が中心の同じようなメニュー。ブラジルでは定番だが、日本の選択肢の多さと比べるとやはり飽きる。さらにエンサイオでは「よそ者がきたぜ」という視線…。

こうして試練の2カ月が経ち、語学学校も終わるとホームステイ先を出て、ブラジル生活の経験豊富な日本のサンバ仲間との共同生活が始まった。日本語で会話ができる上に、ポルトガル語が話せる人と外出する時は、すっかり頼ってしまった。

マンゲイラで練習の日々を送るが、そもそも最初から「カーニバルに出られないよ」と言われていた。それでも選ばれることを信じて、クアドロの灯りがつく前に来て、エンサイオに出続ける。それしかなかった。

カーニバルの2、3週間前になってアゴゴを渡される。「アゴゴで出ていいよ」。目標のタンボリンは叶わなかったけど、アゴゴでも出られてよかったと思った。「来年も来い」「もっと早く来い」というジレトールの言葉に、再びチャレンジすることを心に誓った。

後で知ったことだが、マンゲイラにとってアゴゴは重要でないため、他の楽器から落ちた人がぶち込まれるパートで、アゴゴを渡されたら肩たたき。でも、来年こそは必ず…。

この年のマンゲイラは3位だった。



2年目のマンゲイラ。ファヴェーラに拠点を移す

仕事にも復帰し、日本でサンバ活動を行いながら2年目のリオに向けて準備を進める。ビザに種類があり、年間で滞在できる日数が決まっていたが、何とか12月から本番の2月まで滞在できることになった。

2年目ということもあり多少は余裕も生まれ、今回の滞在先は昨年にマンゲイラのエンサイオ・ヂ・フア(Ensaio De Rua)と呼ばれるストリート練習で知り合った、ベッチーニョの家に居候することにした。

ベッチーニョは楽器を教えている先生で、めちゃくちゃ有名でもないし、サンバの歴史に名を残すような偉大な人でもない。ただの楽器を教えている60代のミュージシャンのおっちゃんだけど、いろんな人から尊敬されていて、マンゲイラの子供たちに教えるのはもちろん、グランジヒオのメストリや、イーリャのジレトールとかもやってくるし、ヴィラ・イザベルのメストリも生徒。本人は謙虚にプロフェッソール( Professor:先生)と言い張るが、周りは親愛と尊敬の念を込め”メストリ(師匠・道を究めた人)”と呼んでいる。1989年には来日し、浅草カーニバルにも出演している。

リオに着いて「いまから空港を出るから」とメストリに電話。「近所に着いたら連絡して」と言われたような気がするが、着いてもWi-fiが無いので連絡できないからって言いたかったけど言葉が分からなくて、そのままタクシーにのって行くことにした。彼の家はマンゲイラのファヴェーラにある。

ファヴェーラはブラジルのスラム街で、マフィアの拠点になっている。マフィアといっても「ゴッドファーザー」のような絶対的なドンがいて下っ端がいる組織ではなく、ファヴェーラの組織と警察の抗争を描いた映画「City of God(Cidade de Deus)」ような、リーダーとファミリーが平等なあの感じ。ただブラジルでは一般人でも簡単に撃たれる恐怖が付きまとう。

マンゲイラのファヴェーラは分かりやすい場所にある。マラカナンスタジアムの玄関口マラカナン駅と次のマンゲイラ駅へ向かう線路と並行して走っている道路を境にして、丘(山)の斜面に広がっている。

メストリの家はファヴェーラの南端に位置し、マラカナン駅の改札を出て1Fに降りてすぐの路地を上がる。路地の入口でタクシーを降りるとき、運転手に「ここで降りるの?」と、びっくりされた。案内所のような電話をかけるスペースにいたおばちゃんがメストリを知っていたので、電話してもらった。

メストリと家まで続く道をのぼっていく途中、マリファナなどのドラッグを売りながら拳銃を持って無線機で話している男がいた。銃を持った若いマフィアもぞろぞろ歩いている。なんの連絡もなしに見知らぬやつがファヴェーラに足を踏み入れた途端、きっと彼らの餌食になる。

基本知識としてリオのファヴェーラは下町でなく、大抵は丘(山の斜面)に建っている。これらのファヴェーラはポルトガル語で丘を表すモーホ(Morro)と呼ばれている。モーホ・ダ・地名。マンゲイラのファヴェーラは、モーホ・ダ・マンゲイラ(マンゲイラの丘)になる。

ファヴェーラには敷地を区切る壁もなく、どこからエリアに入ったかわからない。あきらかに建物とそこで暮らす人の雰囲気が違うが、レンガやブロックの建物が密集した坂道をのぼっていると思ったら、さらに刺すような目線を感じた時はそこはファヴェーラ。速やかに引き返すこと。

マンゲイラは、孤立しているモーホ感がいまだに強い。住民は血縁関係で結ばれていることが多く、みんな顔みしり、知らない人は住んでいない。「あの息子の母親の兄弟の誰かがこいつ」みたいな世界。よそ者がきたら目立つ。好奇心で近寄ってはいけない。彼らの考え方は「なんだあいつ、俺たちの庭に勝手に入ってきて」というように、自分たちの庭を観光客が歩いているように感じる。だから知らないやつを見る時は、奇妙な目で見る。家の人には、絶対にカメラを出すな。携帯も写真を撮ったら、マフィアに撃たれるぞって言われていた。

そんなデンジャラスな場所から、2年目がスタートするわけだが、メストリの家に日本人が居候してるということは広まっていて、ファミリーの客として入れてもらっているので、コミュニティのメンバーとして守られている。自由に出入りできるし、友人を招き入れたりすることも出来る。

ファヴェーラでまず最初にしたことは、ここいることを知らせるために住民に挨拶をした。

「あなたは誰?」「ベッチーニョのところに住んでいます」「ベッチーニョのところに住んでいるのね。そしたらあなたもサンバをやるの?」「バテリアの日本人でしょ」。

マンゲイラのモーホに暮らす全ての住民がサンバを好きなわけではない。地元のサンバチームを応援しないといけないという訳でもなく、サウゲイロのTシャツを着て歩いている人もいる。どこを応援してても「あいつが好きなのがそこ」ってだけ。それでも住民はファミリーだから問題ないそうだ。

メストリの家に着いて最初の2週間で初年度よりしゃべれるようになっていた。モーホの中で、ポルトガル語を浴びて自然と身に着いた。ただ、モーホなので、めちゃくちゃスラング。もちろん、何もせずに身に着くというわけでない。知らない言葉は片っ端から調べた。

ただ、メストリには辞書で引こうとすると止められた。知ってる単語に置き換えて、分かるまで説明してくれて、時には寸劇みないなのもやってくれた。一つのことを理解させるために大変な労力をかけてくれるメストリには、感謝の言葉以外見つからない。

日々の暮らしでは、お互いの飯を作りあったり、サンバとは関係ないサルサの練習や、部屋中に楽器があったので適当に出して練習したり、モーホの中でひたすら交友関係を広げた。

肝心のサンバはというと、ひたすらタンボリンの練習。でも、カーニバル4日前に渡されたのはアゴゴ。最後の最後で肩たたきにあう。

理由を聞いたら「おまえは演奏がまだだめだ」といわれた。すぐに来年くればいいやと思った。なによりもモーホの暮らしが楽しかった。

カーニバルは順位を1つ落とし4位だった。



3年目の奇跡

3年目も12月に到着。今回もメストリの家にお世話になる。メストリが入り口で待っていてくれて、路地を通ると街の人たちが「帰ってきたな!」と温かく迎えてくれた。

3年目は行く前から、ジレトールに「タンボリンはいっぱいで出られないから、あきらめろ」と言われていた。

最初からノーチャンス。「それでも構わない。でも、エンサイオには全部出させてくれ、勉強のために行くから」と返事をした。そもそも遅い。本当は5月に行かないといけない。

その時には意地でもタンボリンで出てやる気持ちは無かったし、今年で最後にしようと決めていた。目的も変わり、マンゲイラに住みたい。メストリファミリーに会いたい。あのコムニダージ感(comunidade:コミニティ)に戻りたい。運がよければ、今年もまたパレードに出たい。

OBとしてサンバ活動を続けてた自森を辞め、エスコーラでの活動に区切りをつけようとしていた時期でもあった。

この年、マンゲイラのメストリが代わった。バテリアのトップが代わったということで、こうなると一からのスタートになる。

このタイミングで前のメストリを慕う人たちが辞めていき、新たにメストリ派の人達が加わり、タンボリンでは、他のパートのジレトールが起こした不祥事に絡む人が辞めている。

子供のころからメストリ・ベッチーニョに教わっている兄弟子が、タンボリンのジレトールになった。彼からも直接「今年はタンボリンでは出られないから、もういっぱいだから」と言われた。

年明けのエンサイオ・ヂ・フア(Ensaio De Rua)でもタンボリンになれず、フアは本番を想定して練習するので、ここで出られないということは、本番も外されるということを意味する。つまりこの年は、もうすでにパレードメンバーが決まっていて、この先も可能性がないということだった。

バテリア250名のうち、タンボリンは30名。圧倒的に優先されるのは、モーホの人間。そこから長年やっている外の人間。次に今年のエンサイオに参加した回数で決まる。

来るのも遅かったし、メストリも代わったので仕方がないと思ったが、理不尽なことが続いた。サウゲイロのジレトールをやっていたショカーリョ(Chocalho)の人が後から入ってきたにも関わらず、ジレトールになっていた。

これまでは長年やっている人が優先だったはず。このやり方はおかしいと思ったので、月に一回行われているバテリアの全体会議で手をあげた。この日は230名程出席していて、後からきたメストリ派の人達はいなかったので、みんなの意見を聞いてみたかった。

「なぜ、後からきた彼らが選ばれるんだ。あなたたちにとっては正しいことかもしれないけど、俺にとってはそうは見えない。俺がもともと入れない理由は、来るのが遅かったからじゃないですか。初めてのやつにジレトールまでやらせて、しかも彼のファミリーも選ばれている。俺は3年もやってる。俺は日本人かもしれないけど、そんな差別しておかしくないですか?」

この頃には、会話が聞き取れるようになっていたので、あちこちで言い合っている内容も解る。

「確かに、なんであいつらがジレトールなのか分からない」
「それは、今までやってきた事績があるから」
「いや、でもおかしいだろ」

火に油を注いだようだが、このやり方はおかしいと思っている人もいるようだ。家でもメストリが「それはおかしいことだ」と応援してくれて、さらにこうして、バテリアの人も賛同くれている。

「あいつ3年も来ているんだぞ。あいつを出さないなんておかしいだろ。あいつを入れるべきだ」思いがけない熱い言葉が嬉しくて「なんなんだよ、こいつら」って泣きそうになった。

話し合いの間、メストリは終始、無表情で無言を貫いた。最後まで結論は出ずに会議は終わった。

結局、アゴゴなら出られるよといわれ「また、アゴゴ…」と思いつつも、ありがとうと伝え、それからはアゴゴの練習に加わった。

会議の出来事の後に今度は「Monobloco(モノブロコ)」のメンバーでタンボリンを叩いているジュニオール・テイシェイラ(Júnio Teixeira)がパレードに出ることになった。

「Monobloco」はリオで絶大な人気を誇るパーカッション集団で、ジュニオールも超有名人。彼はかつてはマンゲイラと掛け持ちで出場していたが、しばらく出ていなかった。今年はMonoblocoをやめて、マンゲイラに復帰していた。

彼に「俺はタンボリンで出られないんだよ」と話したら、「ちょっと待って、それおかしいだろ。俺が話をしてくる」ってなったが、その話はその場で終わった。

本番4日前になり、クアドラまで衣装を受け取りに行く。

クアドラにはお金持ちのが観覧するカマロッチ(Camarote)という個室があり、そこにそれぞれ楽器ごとに別れ、衣装が置いてある。

名前を確認し衣装を受け取り、「よし、今年も出場できる!」ブラジルに来て良かったと喜びに浸りながら帰ろうとすると、タンボリンのジレトールに呼ばれた。

なんだろなーって思って会いにいくと、座っているジレトールが、

「お前タンボリンだぞ」

ほんの一瞬、時が止まったように感じた。

「え?どうゆうこと?」

「タンボリンで出ていいんだよ」

完全に腰がぬけた。

俺はタンボリンで出場できるんだ…。

涙が止まらなかった。

みんなが寄ってきた。お前、まだ泣くの早いだろって。

エンディング

マンゲイラの他にエスタシオ・ヂ・サー(G.R.E.S. Estacio de Sa)にも1年目から通っていた。

エスタシオ・ヂ・サーは、初のエスコーラとなったデイシャ・ファラール(DEIXA FALAR)の流れを受け継ぐ古豪のエスコーラ。パレード会場となるサンボードロモに近い場所に拠点を構え、マンゲイラからも割と近く、政府機関が並ぶ官庁街やオフィス街にある。

エスタシオに通ったのは、マンゲイラ以外のサンバを勉強したくて、プリメイラ・セグンダ・テルセイラとスルドが3本あるサンバで、かつ日本に存在しないような音を勉強したかった。

エスタシオを選んだ理由は、バテリアが出す音が好きだった。さらにエスタシオは一つ下のリーグなので、パレードは別日で被らない。場所がら外国人も多く在籍し、誰でもウェルカム。親しみやすいエスコーラで、セレサォン(Seleção:選抜)にも入ったので、いつでも出られる状態もありがたかった。

毎年カーニバル本番は、土曜日にSÉRIE Aのエスタシオで参加し、日曜日か月曜日にGrupo Especialのマンゲイラ。

実はマンゲイラのタンボリンで参加することが決まった後、「他の人にアゴゴ貸すから、当日に持ってきて、代わる人に渡して」と言われた。「えーーー」と声を上げたが、渡すしかない。その人は、モーホの住民ではなく、エンサイオには自分よりも前に参加しているけど、今年が一年目。

彼はタンボリンを持って叩く気まんまんなのに、突然アゴゴを渡されて、放心状態に。でも「おめでとう」と言ってくれて「おれもお前が3年間やっているのは見てるから」って…。

結果発表の午後、マンゲイラのクアドラへ

採点は全部で9項目。1項目4名の審査員で構成され、そのうち一番低かった点を除いた3名の得点が加算される。点数は審査委員ごとに発表。スクリーンに表示される。

「マンゲイラ~。10点」歓声と安堵のため息。

4名の結果は、10点、10点、10点、10点。得点は30点。

「マンゲイラ~、9.9点」地獄に落ちるかのような絶望感。

それでも4名の結果は、9.9点、10点、10点、10点。得点は同じ30点。

半分くらい審査が進んだ時点で、みんなが泣いている。

「やばい、やばい」ブラジル人もまねをする。
「やばい?カランバ(Caramba)?」
「やばい」「カランバ」みんな興奮して、おかしなことになっている。

優勝の期待が膨らみ始めたところで、突然の豪雨。停電。個々にスマフォで確認するという異様な雰囲気の中、「いま何点?」。最後の得点を誰かが叫ぶ。

「Campeã!」ついに優勝が決まった。なんと270点満点のおまけつき。

クアドラはお祭り騒ぎ、ビールかけが始まり、濡れた床に飛び込む人たち。涙にビールが混じる。

疲れていたので、ひとしきり仲間と喜んでから、クアドラを後にした。

いつもの飲み屋に落ち着き、お世話になっている旅行代理店の人を呼び出し、二人で祝勝会をあげた。

しばらく飲んでいると、携帯にメッセージが届く。

「エスタシオも優勝したよ!!」
号泣して崩れ落ちる。

こんなことってあるんだ…。

酔ってぐるぐる回った頭の中を、3年間の想いが駆け抜けていった。

後日談

結果発表の週末。上位6チームが出場するチャンピオンパレードに出た。

“Chegou ô, ô, ô, ô, A Mangueira chegou, ô, ô♪ ”

スタート直前。あと数十秒で叩き始めなきゃ。

その時、ジュニオールに耳打ちされた。

「よかったな。あの時出る予定だったけど、おまえが出れないって聞いたから辞退したんだよ。日本人の友人に、それは出させてあげないといけないって。そりゃそうだろ。」

突然の話にびっくりした。

確かに本番当日、彼はいなかった。

まさか、自分のために…。

メストリも、バテリアのみんなも応援してくれた。

これまでに出会った多くの人の助けで、今ここにいることが出来るんだ。

まもなく最後のパレードが終わる。

お世話になったみんなに感謝せずにはいられなかった。


夢を叶えるために己の可能性を信じ、突き進んだ、ずんさん。

「Eu quero tocar aqui!!!(俺はここで叩きたいんだ)」という言葉に込めた想いは、ダブル優勝という最高の形で実を結びました。

辛かった最初の2カ月に学校で基礎の基礎をみっちり叩き込んだからこそ、2年目からのファヴェーラ生活でポルトガル語も上達し、マンゲイラの会議で発言したり、銃をもった麻薬ディーラーとも友達になり、冗談を言いあう仲になれたそうです。

音楽以外にも大事なことを教えてくれたメストリとの生活。ずんさんにとって、もっとも大きな出会いだったのではないでしょうか。

今後は日本でサンバを子供たちに教えたい。いじめられて心がすさんでいた時、サンバに救われた。生きがいをみつけることができた。

このために生きようと思えるものを無償で提供できる場所を作りたい。サンバでなくてもいい。生きる糧となるきっかけになれば。

自分はプレイヤーではなく、教えることが好き。

親は教師。

うん。やはり、同じ血が流れている。



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