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サンバでリオ・デ・ジャネイロ1か月間体験リポート!!

2019年のサンバカーニバルは3月初頭に行われ、渡航準備に忙しい季節になりました。

ということで、今回は昨年のリオのカーニバルに合わせて現地で一か月間滞在した、サンバダンサー小山栞(しおり)さんにその時の体験をリポートしていただきます。

サンバを始めてからリオに行く前の状況や、初めての海外旅行での苦労話、現地で体験したサンバのことなど、リオで過ごした1か月で初のブラジルをどのように感じたのかに注目です!!


こんにちは。小山栞と申します。

サンバに出会って今年で5年目。
浅草サンバカーニバルでは高校一年生から自由の森学園サンバ音楽隊のメンバーとして出場させて頂いております。

中学までは吹奏楽部でしたが、高校に入学しサンバと出会いました。自由の森の授業は選択講座制でサンバを学ぶこともできます。ダンス自体がほぼ未経験だったので、最初は自信もなく参加するかとても悩みましたが、少しでもやりたい気持ちがあるならやってみようと思い参加しました。

浅草サンバカーニバルでは、1年目はアーラ(パレードのテーマを表現する衣装を着て踊るグループ)として参加しましたが、サンバに関われば関わる程パシスタ(花形ダンサー)に憧れをもち、2年目からはパシスタとして出させて頂いています。

高校三年生になると進路の事でも悩み始めました。小さい頃からピアノを習っていたのもあり音楽が大好きだったので、自由の森の選択授業で3年間声楽やオペラとも関わってきて、歌も歌いたいけど踊りも続けたい…。でも音楽の道に進むのも簡単な事ではないのを知っているし、そしたらサンバも今までみたいに続けられなくなる…。と、物凄く悩んだ結果、音大に行くとしてもすぐに行くのは難しいから、まずブラジルに行こう!という答えに辿り着きました。

自分がサンバに対してどう向き合っていくのかを知るには今のままでは難しいと感じていたので、まずはブラジルに行って自分の目で見て確かめてこようと思いました。

卒業して時間が経つほど、決心したブラジルに行く事が自分の中で曖昧になってきました。「どうしよう」と思って浅草が終わり、「どうしよう」と思って時間がまた過ぎそうだったので、「よし!もうリオまでのチケットを購入しよう!」と決めて、ビザの取得までバタバタしながらも色んな人に助けてもらい、なんとか実現する事が出来ました。

ブラジルへ出発

人生初めての海外!で、ポルトガル語も分からないしそもそも英語すら分からない…。英語だけでもちゃんと勉強すれば良かったと渡航前に思う日々…。どんな風に暮らして行けば良いのかも全く想像も出来ない中、2018年の1月23日から2月23日までの丁度1ヶ月の旅が始まりました。

まず渡航前日に大雪で電車も飛行機も止まってしまい、不安になりながらも当日は余裕を持って空港に行きました。ドバイ経由で行ったのですが、日本からドバイまで12時間、トランジットが3時間、ドバイからリオまで14時間。約30時間のこの時間がとても辛かったです…。

初めは沢山映画が観れる事や機内食がとても楽しみだったのですが、だんだん眠いのに眠れなくなってきて、足も浮腫むし映画も見飽きるし、やっと眠れたと思えば機内食で起こされるし…。リオに着くまでが2日間くらいあったんじゃないかという気分でした。

現地では日本でとてもお世話になっている自由の森の先輩が先にブラジルに行っていて、一か月一緒にホームステイする事になっていました。(先輩はリオのカーニバルにマンゲイラ(Mangueira)のパシスタとしてこれまでに3年出場していて、この年もマンゲイラのパシスタを目指して滞在していました。)空港で待っていると先輩が迎えに来てくれました。

それから先輩の友人が車を出してくれて、ホームステイ先に向かわず“Cidade do Samba(サンバの山車を作る倉庫)”に行きました。各エスコーラ(サンバチーム)毎に場所が分かれていて、隙間から覗くだけでも分かるくらい大きくリアリティのある山車に驚き、初日からこんな貴重な体験が出来るとは思っていませんでした。

ホームステイ先に着き、全く言葉が分からず先輩が間に入って会話をしてくれて、会話ができない事にカルチャーショックを受けました。場所はリオのグローリアという地で、ホストファミリーはイタリア人のとっても声が大きい旦那さんと、サンバが大好きな奥さん。初めの半月は、勇気がなかなか出なくてあまり会話が出来なかったのを覚えています。

一番大事なサンバの話はというと、ブラジルに着いてから時差ボケが酷くて3日目には起きたら夜の20時だったり、一週間くらいは本当に辛くて正直エンサイオ(各エスコーラのホームタウンで行われるサンバの練習会。クアドラという体育館程の広さの会場で夜に行われ、メンバー以外でも見学が可能)も睡魔との戦いだったので、あまり始めの頃は覚えていないんです…。

勿体無いなぁと思うのですが、普段からいつも眠くて人一倍睡眠時間が必要な私にはとても辛い期間でした。

マンゲイラのショーの日には観光客も含め、たくさんの人が訪れていました。

マンゲイラ(Mangueira)のハイーニャ(Rainha da Bateria)のエヴェリン(Evelyn)。動画でしか見た事なかったけれど、座ってるだけでも存在感が凄かった…。

本場のサンバを見て

私は4年ほど踊っているのにサンバの事をあまり知らなくて、このエスコーラはどんな感じなのかとか、このダンサーさんはどんな人なのかとか、多分周りの仲間と比べても本当に知らない事が沢山ありすぎて、「誰を見たい、どこに行きたい」っていう目的もはっきりしていなくて、ただどんな雰囲気でサンバをしているのかを見たいなと思っていました。

私は普段「こう踊りたい!」と思っても身体が動かないし、動画を見たりして「こういう踊り方がしたい」というのが感覚的には解っているのですが、いざ踊るとなると何か踏み切れていない部分があって思うようにいかないし、どこか出しきれてない部分を自分でも感じていました。

動画で観るたび、「現地で踊ってる人達は自分のテンションと身体の動きが連動していて、思うままに感じるままに踊れているな。私もこう踊れたら気持ちよく踊る事が出来るんじゃないのかな。そうやって踊れた事ってないな。それが本当の踊るって事なのかな」とずっと思っていました。それを目の前で体感したいし、その空気を感じたい…。

そして、実際に目にすると言葉に出来ないくらいエネルギーで溢れていて、ものすごく圧倒されました。

先輩に去年2017年の浅草に向けての自由の森のエンサイオでよく言われたのが「(ブラジルの)パシスタはもっと踊るから」。

今よりももっと踊るんだな。というのは分かるけれど実際ピンときていなくて、動画を見てすごい踊っているのは分かるけどそう思うだけであってがむしゃらに踊れば良いって事でもない気がするし、どういう事なんだろう…と思っていましたが、本当に現地で踊ってる人達って、めちゃくちゃ踊ってるんです。

自分の目で見て「あーーーこういう事を先輩は言いたかったんだな、ぜんっぜん踊ってなかった…」と思って、本当にこれって言葉で言うのは簡単なんですけど、伝えて分かる事じゃなくて、感じて初めて分かる事なんだなって思ったし、本物を見て私はこれまでどれだけ踊ってこなかったかという事に気づいて恥ずかしいし悔しいし…かなり落ち込みましたが、自分自身で感じて納得出来た事にとても満足しました。

もう本当に見たものを言葉で伝えるって物凄く大変で、説明も得意じゃないのでここまで説明するのにとても苦戦しているのですが…笑。先輩が言っている事ってこういう事だったんだなぁと色々私の中で腑に落ちていない事が納得出来て、実際見てすごいなぁという気持ちも勿論あるけれど、それよりもこういう事だったのか…という思いの方が正直大きかったです。

カーニバルの日は現地でチケットを購入して、いろんな席から観ることができました。会場では自分の席がわからなくなるほど、人の多さに圧倒されました。この時はスタート地点付近の席だったので、最初の方の山車は割とじっくり見る事が出来ました。(写真はポルテイラ)

先輩の所属するマンゲイラはサンバの歴史と共に歩んできた老舗で大人気のエスコーラですが、周りの観客みんながマンゲイラのファンというわけではないのに、マンゲイラのパレードが通り過ぎた後もみんなでエンヘード(パレードの曲)を歌って…。あらためてマンゲイラの人気を感じ、とても感動しました。

そんな感動に浸りながら先輩を一生懸命探したけど見つからなくて…。残念でしたが、期間中は何度も会場に足を運び、カーニバルを満喫することができました。

言葉の大切さ

サンバ以外の事をお話しすると、今回周りの先輩に沢山助けて頂きましたが、現地の言葉が分からないって相当大変な事だな。と痛感しました。

家では先輩がポルトガル語の通訳をしてくれるし、先輩がいないときホストファミリーと会話するときは、スマフォのスピーカーをオンにして、翻訳アプリでお互いに聞きながら会話をしたり、外へ出ても助けてくれる人がいたのであまり困る事もなかったのですが、渡航期間中に同じく初ブラジルのサンバダンサーの先輩がいて、現地で初めましてだったのですが仲良くして下さって、カーニバルに参加する人達が忙しい時に2人で出かける事が何度かあったのですが、お互いポルトガル語が必要最低限しか分からなくてものすごく大変でした。

お互いに知ってる事、出来る事を思い出したらすぐ伝え合って、会話をするのも移動手段も助け合いながらなんとか出かけて帰ってくるのに一苦労で、やっぱりちゃんと勉強してくるべきだったよね…と2人して思って、でもそうやって助け合う時間が今思うともの凄く良い体験に、勉強になったなと感じています。

今でもその時の話になると家から出て帰ってくるまでずーっと必死だったなぁと…笑笑。ちゃんと帰ってこれた時の達成感と、お互いの友情がとても深まったきっかけにもなったし、すごく大変だったけど楽しかったなと今では良い思い出です。

大きなショッピングモールに皆で出かけて、人生初のシュハスカリアで、沢山お肉を食べた後に夜はエンサイオに行きました。

先生からつながる美味しいお料理

私がブラジルに渡航する前に、近くの公民館でポルトガル語を教えてる人がいるみたいだよ。と母が見つけてくれて、12月頭に体験に行きました。

先生は若い頃に仕事でブラジルに住んでいたおじいさんで、授業というよりはお話をしながら学ぶ感じで、勉強が元々すごく苦手なのでそういう意識をあまり持たずに教えてもらえるのは良いなと思って、1月下旬の渡航ギリギリまで週一回通っていたのですが、驚く事にブラジルに住んでいる、先生の親友がボタフォゴで日本料理のお店「都(Restaurante Miako)」をご夫婦で営んでいて、そのご夫婦のお子さんが自由の森の卒業生だったり、自由の森を紹介したのが先生だったり、こんな事ってあるの?というくらい共通点が多くて今でも考えると改めてすごいなと思います。

先生が現地のご夫婦に連絡してくれて、先生からも渡して欲しい物を受け取って、カーニバルも終わりみんなが落ち着いてからリオでよく行動していたメンバーでお店に食べに行きました。

久々に食べた刺身やうどん…日本食に皆感動しながら、最初は少し怖そうに見えた先生の親友の店主さんも本当に良い方で、先生との出会いや奥さんとの馴れ初めや勿論サンバの話もしました。

私が日本にいる時からご夫婦とは連絡を少し取っていましたが、帰りには奥さんが日本のお米で鮭のおにぎりを持たせてくれて、本当に親切な方達だなぁと先生にもご夫婦にも凄く感謝しています。

私は良い人と巡り会える運を持っていると人と出会う度につくづく思うのですが、今でもそのご夫婦とたまに連絡を取り合い「またブラジルに来た時にはいつでも頼りにしてね」と言って下さって、先生の代わりに届けることが出来て、日本に帰ってきてから先生にも少し恩返しをする事が出来たのかなと思っています。

ブラジルにいて観光地にはあまり興味がなくて、せっかく1か月もいたのにあまり観光はしなかったのですが、唯一滞在中に行ったのがザ・観光地、セラロンの階段(Escadaria do Selarón)。だけど私の中で印象に残っているのは階段ではなく、写真を撮ったブラジル国旗の前でボサ・ノヴァを弾き語りしていた男性です。また会いたいと思って買い物ついでに一人で行ってみたけれど、会う事は出来ませんでした。それでも、自分としては満足過ぎるくらいサンバに関わらず色んな事を勉強出来た1か月だったなと思いました。

正直カーニバル期間のブラジルはお祭り騒ぎで、人の波にのまれながら服を引っ張られたり髪の毛を引っ張られたり、爆竹も音が大きくて銃声と勘違いして怖かったし、外に出かける前に気合を入れないと外に出られなかったし、一人で近くに買い物へ行く時も話しかけられて怖くなるし、クラブへ行けば勿論話しかけられる事も多いし、外で携帯やお財布を出すタイミングとか色んな事に気を使わないといけなくて、話せばぽんぽん出てくるくらい怖いこともありました。

そのため、日本に帰ってきた時にはリュックを後ろに背負っているのも、横のポケットに物を入れるのも、お財布や携帯も服の中に隠さないと落ち着かなくて、なかなか日本の感覚が戻るまでに時間はかかりました。

リオで怖い思いもしたからいつ自分も周りも何があるか分からないって本当に思いますし、私は本当に生きて帰る事が出来るのだろうか、運が悪ければ死ぬかもしれないと思ったし、人生で初めて死ぬ恐怖を味わいました。それは日本に着くまでの飛行機の中でも正直不安は拭いきれなくて、家に着いた時の安心感は凄かったのを覚えています。

ブラジルから帰国して

日本では感じる事の出来なかった経験を沢山出来たなと思って、これもまた言葉では表現し難いのですが、自分が踊る時の心持ちも変わったなと思います。日本にいる時から、ブラジルでサンバをした経験がある先輩が近くにいてブラジルでの経験を教えてくれたからこそ、明確な疑問を持って現地でさらに感じることができたと思います。

先輩とは1か月一緒にいて、私の話も真剣に聞いてくれてアドバイスしてくれて、その時間は日本にいたら絶対に作れなかったと思うし、そこまで私も今みたいに先輩に対して心を開けなかったかもしれないし、本当にあの時間は私にとって大切で濃厚な時間だったなと改めて思います。

こんな事を思い出すと本当に涙が出てきてしまうくらい私は幸せ者だなって思うし、ブラジルでの1ヶ月は色んな事がありすぎて全部は覚えきれていないし記憶も薄れてきていますが、それでも確実に私の中で大きく変わったきっかけになったし、真剣に向き合ってくれて、私と一緒に行動して色んな事を教えてくれた先輩には感謝してもしきれないくらいです。そして同様に、私がブラジルに行く事に反対せずに受け入れてくれた両親にも感謝しているし、助けてくれた先生や先輩、現地の方、色んな人に感謝の気持ちでいっぱいです。

帰ってくる時も大雨と洪水でした。帰国する為に空港へ向かう途中、街が大雨と洪水で車を出すのも大変な状況で、友達やホストファミリーがスーツケースを担いでくれたり、パトカーを呼んでくれたり、最後の最後まで親切にしてくれて、皆の優しさに心が温かくなりました。

 

空港まで辿り着けるのだろうか…と日本からブラジルに行くまで、ブラジルから日本に帰国するまで、本当に最初から最後までハプニングばかりでしたが、また次にブラジルへ行くときは今回の経験を踏まえ、別の目標をもって行けたら良いなと思っています。

〇〇 or meat

最後に思い出して情けなかったなぁと思ったのが、行きの飛行機の中で英語が分からなくて機内食の時に毎回緊張していたのですが、何を話しているのか分からなくて、ただ毎回聞き取れたのが「〇〇or meat」で、ずっとお肉がメインの機内食を食べていた事です…。

奇跡的に一度だけ全部聞き取れた時には好きな方を選ぶ事が出来たのですが、ほぼ選択する事が出来ず聞き取れた方を選んでいました。今思えばメニュー表があったので事前に確認すれば良かったなと思って、考えが及ばなかった事が恥ずかしいし、ポルトガル語もそうですがまず英語が分からないのは致命的だなと今まで学校の勉強すらちゃんとしてこなかった事を反省しています…。

こんな話で最後になってしまい上手く話にオチがついたのか不安ですが…。

説明が本当に苦手なので上手く伝わったか自信もあまりないのですが、温かい心で受け止めて頂けたら嬉しいです。

最後まで読んで頂きどうもありがとうございました!

 


本場のサンバを体験することによって成長した様子が栞さんのリポートからも伝わってきました。

その他にも長距離移動や、気を付けなければならないことがあり、いろんな意味で成長させてくれる国がブラジルです。

初の海外旅行がブラジルという難易度の高い旅に挑戦し、サンバの本場でいろいろなことを体験して沢山のことを学んだ栞さんは、2018年の浅草サンバカーニバルでは、見事ハイーニャ(楽器隊の前で踊ることが出来る唯一のダンサー)に選ばれました。

リオでの経験が生きたからこそ、勝ち取ることが出来た栄誉だと思います。

栞さん、これからも日本のサンバを盛り上げていってくださいね。


栞さんが活躍する自由の森学園サンバ音楽隊 浅草サンバカーニバルの様子はこちら

自由の森学園サンバ音楽 fecebook

「レストラン 都(Restaurante Miako)」
Rua Farani, 20
Botafogo Rio de Janeiro
facebook : https://www.facebook.com/miakorj/



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